戦国時代の文亀元年(1501年)、豊後国主の大友親治(宗麟の曾祖父)が開基となり、近江国から巡錫(各地をめぐり歩いて教えを広めること)して来た満誉覚了上人が開山したお寺が浄土寺である。その後、1573年に戦火で焼失。再建の年代は分かっていないが、大伽藍が復興された。
 元和9年(1623年)、徳川家康の孫(家康の二男・結城秀康の長男)に当たる越前北ノ庄(福井)藩主の松平忠直(一伯と号す)が将軍家とトラブルを起こして豊後府内藩(現在の大分市萩原)へ配流となった。越前七十五万石からわずか五千石の扶持となった一伯公の行状はますます悪化していく。しかし、愛妾お蘭の方の死去がきっかけとなって、一伯公は浄土寺第十代の信誉上人と深い親交を結ぶことになった。この関係を通じて一伯公はこれまでの振る舞いを反省。阿弥陀如来がおわす西方極楽浄土の信仰一筋に生きる。
 その後、一伯公は館を津守(大分市滝尾)に移し、付近の住民から慈父の如く慕われたと伝えられている。
 そんな一伯公も慶安3年(1650年)に56歳で死去。浄土寺第十一代の単誉了宅上人によって葬儀が行われた。生前、一伯公を改心させた功によって、浄土寺は徳川家の葵の紋の使用を許され、一宗から豊後国筆頭職を命じられることになり、大いに栄えるようになった。
 しかし、安永2年(1773年)付近の火事で再び全焼。以後70年にわたって復興に努め、嘉永2年(1849年)に現在の十二間四面の大伽藍を再建して現在に至っている。